浅川伯教・巧兄弟

高根西小に学んだ人々

明治6(1873)年8月に個人宅を仮校舎にあて、「村山西学校」として誕生した本校は、その後、時代の変遷により、その名を「村山西尋常小学校」「村山西国民学校」「村山西小学校」などと改称しながら、現在の「高根西小学校」に至ります。

(学校の沿革については学校案内をご覧ください。)

開校以来、134年を数える本校には、敬意を表すべき先人が数多くおります。 ここではその一人である

兄弟を紹介いたします。
昭和初期の村山尋常小学校の校門風景
〈昭和初期の村山西尋常小学校々門風景〉

朝鮮の美を見つめ紹介した兄弟

浅川伯教(あさかわのりたか)

明治17(1884)年~昭和39(1964)年

兄・浅川伯教は朝鮮陶磁の研究に長い歳月を費やし、「朝鮮古陶磁の神様」と言われました。

年譜
年号 西暦 略歴
明治17 1884 8月4日、山梨県北巨摩郡甲村(現在の北杜市高根町五町田)に父・如作、母・けいの長男として誕生
明治23 1890 浅川伯教・巧兄弟の父親が亡くなる
明治24 1891 村山西尋常小学校(現在の高根西小学校)入学
その後、長坂町の秋田尋常高等小学校に進学
明治36 1903 山梨師範学校(現在の山梨大学)入学
明治39 1906 同学校卒業後、尋常小学校の訓導(教師)となる
明治45 1913 朝鮮へ渡り、朝鮮の尋常小学校の教師になる
大正8 1919 教師をやめ彫刻家をこころざす
大正9 1920 彫刻「木履(ぼくり)の人」が帝展入選
大正10 1921 柳宗悦(やなぎむねよし)や弟の巧と朝鮮民族美術館の計画を考える
大正11 1922 朝鮮の各地にあった窯跡(かまあと)を調査する
大正13 1924 朝鮮民族美術館が開館する
昭和2 1927 巧とともに再び窯跡の調査
自らも焼き物の作品づくりに励む
昭和5 1930 窯跡調査の本を刊行する
昭和9 1934 「朝鮮古陶史料展」を東京のデパートで開催
昭和15 1940 各地の窯で作品づくりに励む
昭和20 1945 太平洋戦争終わる。京城で日本の敗戦を迎える
昭和21 1946 日本に帰国する
昭和31 1956 『李朝の陶磁』を刊行する
昭和39 1964 1月14日死去。80歳
伯教の写真
村山西尋常小学校卒業生名簿 あさかわのりたか あさかわたくみ
▲左・「村山西尋常小学校」の卒業生名簿(高根西小学校所蔵)、中央・名簿内に記載されている「浅川伯教」、右・同じく「浅川巧」

兄・伯教の功績

朝鮮の美術工芸品に魅了され,大正2年(1913)朝鮮にわたりました。
小学校の先生をしながら、李朝陶磁器の産地の窯跡の調査に一生懸命取り組みました。調べた窯跡の数は700箇所に及びます。また陶磁器の時代的な移り変わりの様子を明らかにした研究は、朝鮮陶磁の歴史の基本的な資料として重要なものとなっています。

染付辰砂蓮花文壺
李朝時代に作られた「染付辰砂蓮花文壺」。
浅川伯教が蒐集したもの。
現在は大阪の東洋陶磁美術館所蔵。

朝鮮の美を見つめ紹介した兄弟

浅川伯教(あさかわのりたか)

明治24(1891)年~昭和6(1931)年

 弟・巧は自然を愛し、朝鮮を愛し、朝鮮の土となった人です。

年譜
年号 西暦 略歴
明治24 1891 1月15日、山梨県北巨摩郡甲村(現在の北杜市高根町五町田)に父・如作、母・けいの次男として生まれる
明治30 1897 村山西尋常小学校(現在の高根西小学校)入学
明治39 1906 県立農林学校(現在の農林高等学校)入学
明治42 1909 秋田県大館営林署勤務
大正3 1914 営林署をやめ、兄伯教を追って朝鮮に渡る
朝鮮総督府山林課に勤める
大正9 1920 朝鮮民族美術館設立を計画
大正11 1922 林業試験場が設置される
大正13 1924 朝鮮民族美術館設立開館する
朝鮮五葉松の露天埋蔵発芽促進法を開発する
昭和2 1927 兄伯教とともに窯跡の調査をする
昭和4 1929 『朝鮮の膳』刊行
昭和6 1931 4月2日死去。40歳

▲兄・伯教の描いた「巧の似顔絵」

巧の幼少時代

巧は子供の頃から物覚えがよかったと言います。祖父に習って、7歳の頃には詩を作ったといいます。後年、祖父への感謝を著書『朝鮮の膳』で『敬愛する祖父よ、生まれし時すでに、父のなかりし私は、あなたの慈愛と感化とを多分に受けしことを思う」と追憶しています。
植物が好きで、学校の帰り道の八幡神社から杉の幼木を抜いてきて、庭に植えて育てました。椎の木を育て、近所の人達にわけたりもする少年時代でした。

弟・巧の功績


朝鮮の林業試験場技手として養苗に取り組む様子。(浅川伯教・巧兄弟資料館内にある巧のジオラマ)
 兄を追って、大正3(1914)年朝鮮に渡り、朝鮮総督府林業試験所に勤務しました。山野の緑化に取り組むとともに、兄の窯跡調査に同行するなかで、朝鮮文化をこよなく愛するようになりました。
 やがて朝鮮民族美術館の設立へとつながっていきます。木工芸の価値を見いだし、『朝鮮の膳』を著しました。また、巧ほど朝鮮人と深く交わり、朝鮮の人々を愛し、朝鮮の人々から愛された日本人はいませんでした。
 巧は昭和6(1931)年、急性肺炎で40歳の若さで永眠しました。巧の早すぎる死を、多くの朝鮮人が嘆いたそうです。
 巧の墓は今でも韓国ソウル市郊外にあります。

朝鮮の美を発見し世界に伝えた兄弟

浅川伯教・巧兄弟(以下「浅川兄弟」)のふるさとである北杜市高根町の史跡・風景などを写真で紹介します。

▲熱田神社。
浅川兄弟の生家近くにある神社。
▲熱田神社境内にある
浅川兄弟の祖父・小尾四友の句碑
▲熱田神社近くにある浅川家の墓所。
浅川兄弟はクリスチャンでした。
▲浅川家の墓誌の裏には浅川兄弟の
功績が刻まれています。
▲浅川兄弟の父・如作の墓もあります。 ▲墓所近くの小道。この道を
浅川兄弟も歩いたかもしれません。
▲生家近くを流れる甲川。 ▲生家跡地の北にある「浅川伯教・
巧兄弟生誕の地」の記念碑。
▲記念碑と生家跡地を結ぶ道。
▲浅川兄弟の生家跡地。
今は空き地となっています。
▲生家跡地に立つ杉。きっと浅川家を見守っていたことでしょう。 ▲残っていた石垣に、かつて家が
建っていた気配を感じます。
▲鎧堂観音 ▲熱那神社。
高根西小学校の北側に位置する神社。
▲県内に唯一「算額」が現存する
熱那神社。(写真は複製品)
▲学区内から見た秋の八ヶ岳。 ▲実りの秋は黄金色。 ▲晩秋の八ヶ岳。
▲厳冬・雪の八ヶ岳。 ▲雪の甲斐駒ヶ岳。 ▲2008年幕開けの富士と日の出。

浅川伯教・巧兄弟資料館について

協力
清水九規(浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会事務局長)・浅川伯教・巧兄弟資料館(北杜市)
参考文献
浅川巧著・高崎宗司編『朝鮮民芸論集』(岩波文庫)
高崎宗司『朝鮮の土となった日本人・浅川巧の生涯』(草風館)
江宮隆之『白磁の人』(河出書房新社)
青少年育成山梨県民会議『郷土史に輝く人びと第19集』
椙村彩『日韓交流のさきがけ-浅川巧』(揺籃社)
「浅川伯教・巧兄弟を偲ぶ会」作成『浅川伯教・巧兄弟資料館』『浅川伯教と巧』
撮影協力
浅川伯教・巧兄弟資料館(北杜市)

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