


明治6(1873)年8月に個人宅を仮校舎にあて、「村山西学校」として誕生した本校は、その後、時代の変遷により、その名を「村山西尋常小学校」「村山西国民学校」「村山西小学校」などと改称しながら、現在の「高根西小学校」に至ります。 (学校の沿革については学校案内をご覧ください。) 開校以来、134年を数える本校には、敬意を表すべき先人が数多くおります。 ここではその一人である
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![]() 〈昭和初期の村山西尋常小学校々門風景〉 |
兄・浅川伯教は朝鮮陶磁の研究に長い歳月を費やし、「朝鮮古陶磁の神様」と言われました。
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▲左・「村山西尋常小学校」の卒業生名簿(高根西小学校所蔵)、中央・名簿内に記載されている「浅川伯教」、右・同じく「浅川巧」 |
朝鮮の美術工芸品に魅了され,大正2年(1913)朝鮮にわたりました。 |
![]() 李朝時代に作られた「染付辰砂蓮花文壺」。 浅川伯教が蒐集したもの。 現在は大阪の東洋陶磁美術館所蔵。 |
弟・巧は自然を愛し、朝鮮を愛し、朝鮮の土となった人です。
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▲兄・伯教の描いた「巧の似顔絵」 |
巧は子供の頃から物覚えがよかったと言います。祖父に習って、7歳の頃には詩を作ったといいます。後年、祖父への感謝を著書『朝鮮の膳』で『敬愛する祖父よ、生まれし時すでに、父のなかりし私は、あなたの慈愛と感化とを多分に受けしことを思う」と追憶しています。
植物が好きで、学校の帰り道の八幡神社から杉の幼木を抜いてきて、庭に植えて育てました。椎の木を育て、近所の人達にわけたりもする少年時代でした。
![]() 朝鮮の林業試験場技手として養苗に取り組む様子。(浅川伯教・巧兄弟資料館内にある巧のジオラマ) |
兄を追って、大正3(1914)年朝鮮に渡り、朝鮮総督府林業試験所に勤務しました。山野の緑化に取り組むとともに、兄の窯跡調査に同行するなかで、朝鮮文化をこよなく愛するようになりました。 やがて朝鮮民族美術館の設立へとつながっていきます。木工芸の価値を見いだし、『朝鮮の膳』を著しました。また、巧ほど朝鮮人と深く交わり、朝鮮の人々を愛し、朝鮮の人々から愛された日本人はいませんでした。 巧は昭和6(1931)年、急性肺炎で40歳の若さで永眠しました。巧の早すぎる死を、多くの朝鮮人が嘆いたそうです。 巧の墓は今でも韓国ソウル市郊外にあります。 |
浅川伯教・巧兄弟(以下「浅川兄弟」)のふるさとである北杜市高根町の史跡・風景などを写真で紹介します。